今、あなたの力が必要な理由

vol.7

宮城の三陸沿岸を綺麗にするため挑み続ける~水中瓦礫を撤去するダイバー達~

高橋正祥

高橋正祥さん- Masayoshi Takahashi -

宮城ダイビングサービス ハイブリッジ 代表

略歴

  • 1979年11月1日生まれ 仙台市出身
  • 2002年:東日本国際大学経済学部 国際経済学部卒業
  • 2004年:オーストラリア パースで、PADIダイビングインストラクター取得
  • 2005年〜2009年4月:グアム、サイパン(s2club)
  • 2009年5月〜2012年4月:神奈川県葉山のダイビングショップ勤務
  • 2012年7月:石巻市に宮城ダイビングサービスハイブリッジを開業し、現在に至る
  • 2015年12月:女川のシーパルピア女川に店舗を移転

現在の仕事を教えてください

僕は仙台で生まれました。父は石巻、母が福島の出身で、家族は東北で育った人間です。震災時、僕は神奈川県の逗子に住み、葉山のダイビングショップに勤めていました。この震災で、家族や親戚が全員被災したため、震災から4日後に羽田から飛行機で山形に向かい、バスを使って陸路で仙台に入りました。

何もなくなってしまった街を見た時、「言葉に出来ない」と愕然としたことを覚えています。

見慣れた風景や、そこで過ごした思い出もなくなってしまいました。瓦礫を尻目に家族や親戚の安否確認をはじめ、一階まで浸水してしまった、叔父の家の床に溜まった泥出しなどの手伝いに明け暮れる日が続きました。原発近くの老人ホームにいた祖母には、放射能の影響もあり数日間、再会出来ずにいましたが、mixiに投稿して情報を集め見つけたんです!そしてある避難所で裸足で着の身着のままの祖母と再会した時は思わず涙が溢れてしまいました。

小さい頃から石巻や女川の海は当たり前に遊んでいた場所。そして、自分に何ができるんだろうと考えました。そんな時、全国から有志で集まった行方不明の捜索チームに参加してみると、ボランティアのダイバーさんは他県から来た方々ばかりで、地元宮城のダイバーはほとんどいなかったんです。「これは地元にもダイバーを育てていかなければならない」と感じました。

地元に戻ればできることはある。そんな思いが強くなりました。葉山はとても好きでしたし、お世話になっていたダイビングショップも辞めるつもりはなかったんです。しかし、地元の海が津波で全部なくなり、子供の頃から慣れ親しんだ海に恩返しではないのですが、地元に戻る選択がベストだと思いました。

石巻に戻った時は、このような状況だと商売は無理だなと思いました。しかし収入がないと生活が成り立たないし、ボランティアも出来ない。そして最初のボランティアに参加した時に思った「地元のダイバーを育てる」という強い信念から、ダイビングショップを立ち上げる決意をしました。

一筋縄ではいかない瓦礫撤去や調査とボランティアを両立している団体として、だいぶ認知されだした2012年の7月にハイブリッジを正式に立ち上げ、自宅兼オフィスで活動していましたが、2015年の12月に女川駅前に開業した「シーパルピア女川」に移転しました。

瓦礫の撤去作業はどれくらい回数をされているのですか?

この5年間で、もうカウントできないくらい回数を重ねていますよ。多い月は毎日潜っていましたから。海から上げた瓦礫は女川町が回収してくれます。100袋、200袋が普通にあがるのが現状ですが、ここ最近では陸の上の「普通に捨てられたゴミ」が徐々に増えてきています。残念ながら。

最近も頻繁に活動されているのですか?

海中の瓦礫撤去作業は一頃に比べるとだいぶ減りましたが、今でも漁協から「ここに瓦礫があるから取って」という依頼はあります。牡蠣やホタテの網に瓦礫がひっかかるそうです。特に海が荒れたあとは多いですね。

海中で回収するものは、タンス、テレビ、パソコン、携帯、財布の中には免許なども入っています。100キロくらいの金庫は船で引き上げます。素材が「木」の場合は腐食してしまいボロボロになっていますね。

また、今でも人骨を見つける事があり、その場合は警察に届けます。身元が分かると教えてくれたりもしますが、ご遺族の意向もあり教えてくれない場合もありますね。

車は数多くありました。震災直後の調査では人も発見しましたが、今はそのような事はありません。あれだけ大きな津波に襲われたんです。そして何万台という車が海に流されたんです。その車は恐らく深い日本海溝など沈んでいるはずです。最初は残っていた窓ガラス等も水圧による影響ですべて残っていません。そんな車を今年も2台引き上げました。

陸の瓦礫はほとんど撤去されているでしょう。しかし震災から5年以上も経過しているのに、海の中では3.11当日のままの場所もたくさんあります。広域すぎて手をつけていないところが多いのが現状です。

現在も行方不明者を探している方のお手伝いをしています。その方は長年探していらっしゃいますが、残念ながら見つかっていません。

これから瓦礫がなくなり、自然形態に戻すのが最終的な目標でしょうか?

それも大切ですが、1番はみんなが心の底から安心して楽しめる海になる事です。

離れてしまった方々が、また海に戻ってこられる環境作りが大切だなと思っています。だって瓦礫だらけの海には戻りたくないでしょう。これからも引き続き、瓦礫撤去と合わせ海を綺麗にしていきたいと思っています。

現状、まだオープンできていない海水浴場が半分以上あります。津波という自然災害が起きたのも事実ですし、人はそれぞれ、いろんな状態の方がいるので…。特に、家族や友達を亡くしている方は、海を見たくも、行きたくもないでしょう。

また教育においても「危ない」から「海に行ってはいけない」と指導している学校もあります。逆に「海に行く事を奨励している」学校もあります。同じ女川の地域でも180度違う。それは校長先生の考え方や、その学校の環境によって違ってくるんだと思います。僕は現場でいろいろな校長先生とお話しする機会もあるので、それを知る事が出来るんですが、これは難しい問題です。どちらがいいとも言えない状況です。

「三陸の海生き物図鑑」を出版されたんですね

宮城県の海の生き物を紹介する図鑑です。2015年10月にレディーフォーというサイトで160万円集めて1万部のフリーペーパーを作り、水族館や学校などに置いてもらいました。「宮城県ではどのような生物がいるのか、子供達に改めて伝えたい」と思いを込めた第一弾です。実際他の魚図鑑に載っていない宮城の魚も本誌には掲載しています。

しかし残念ながら、震災後に見かけなくなった魚もいるんです。アツモリウオなどはいなくなりましたが、戻ってきてほしいですね。子供達に地元の海の良さを知ってもらいたい。確かに沖縄の海もいいですけど、それに負けないくらい宮城の海もいいんだぞ、という事を伝えたいです。

石巻がこれから幸せになっていくにはどうしたらよいでしょうか?

地元の人間が一丸となり、その住民パワーで去年の12月に嵩上げした土地に「シーパルピア女川」を開業しました。テレビでも特集を組まれ、そのお陰で人の流れに変化が起きています。

しかし町が復興してきても、まだ行方不明の方も大勢いるという現実もあります。そのご家族から「復興のスピードに気持ちが追いつかない」というお話しを聞くと複雑な思いです。

この女川の新しい町は、被災地の中で一番最初に復活しました。だから世間からは良くも悪くも試されていると思っているんです。他の被災地からも注目されているでしょうし。

町が復興をしていく中で、僕も自身で出来る事はチャレンジしていきたいと思っています。現在も継続中の行方不明者の捜索を含め、ボランティア活動も続けなければなりません。仕事と両立をし、それを継続するのが一番難しいということは、この5年で経験済みです。だからこそ、それをバネにして若い世代で頑張ってグイグイ引っ張っていかないと(笑)

震災から5年が過ぎ、ボランティアもだんだんと減ってきて、風化は避けられないことなので「今」を伝えていくのも大切だと思っています。

女川の海

一見、綺麗な海も ゴミは散乱している

鉄板の引き上げ
人による引き上げ作業はこれくらいの大きさまで

電線の撤去

鉄板と漁具

鉄製の窓枠

ワゴン車は水深10メートルに沈んでいた

嵩上げした防波堤

我々に出来ることは?(あなたの力が必要な理由)

少しずつ復興しているとはいえ、まだまだマンパワーも足りない状況です。「女川に来て、現実をもっと知ってもらう」というシンプルなことだと思います。

シンボル的なシーパルピアだけを見ると復興しているイメージがありますが、まだまだ工事中の所もたくさんありますし、水中には瓦礫がたくさん沈んでいる。その現実を感じてもらうには、実際に見てもらうのが一番大切。女川に来た事のない方は1度来てみてください。

高橋さんの想い

女川は町民の一割に当たる約1000人が亡くなっています。20メートル以上の高さの津波がきました。しかし現在は、資源が豊かな海に復活しています。漁師はぶっきらぼうな方も多いですが、一旦仲良くなると家族のように気さくな付き合いができます。

そんな宮城の海に興味のある方は是非来てください。そして現実を知ってもらいたい。その事に尽きます。現状を知らない方が多いので、「安心して遊べる海がある」という事を伝えていければと思っています。また、子供達に海の大切さや、ゴミの問題など啓蒙していきたいです。

取材・写真:上重 泰秀(じょうじゅう やすひで)http://jojucamera.com