先生は何をされていますか?
長野県環境保全研究所というところで主任研究員をしております。環境保全研究所は長野県立の研究所です。飯綱庁舎と安茂里庁舎の二カ所の施設があって、以前はそれぞれ独立した研究所でしたが、現在は合併して「環境保全研究所」というひとつの組織として活動しています。
飯綱庁舎の研究員は十数人おりまして、各分野の専門家が、場合によってはお互いにテーマを掛け持ちしたりしながら研究しています。
この飯綱庁舎では、外来生物による在来の生態系への影響の研究や、野生鳥獣問題として増えすぎたニホンジカの個体数を適切な密度に抑えるための研究も現在進めています。また、地球温暖化については気候学のスタッフが対応しています。そのほか長野県内の山にも「氷河があるのでは」と最近外部との共同研究で分かってきています。
私は生物多様性に関する研究のチームリーダ−をしています。絶滅の恐れがある昆虫の衰退の原因を調べるのが私の主な研究テーマですが、昆虫は他の動植物に比べてものすごく種類が多いため、一人でカバーしきれない部分は長野県内のいろいろな専門家の方々から情報をいただいています。
長野県はこの数十年どう変ってしまいましたか?
かつては森や里山の草地などにはたくさんの生物が生息し、人々が生活の糧として使っていました。しかしここ数十年、人が山をほとんど使わなくなってしまいました。
長年放置された森林で、下草や幼木が成長して薮になってしまうと、その場所には草丈の低い植物が育たなくなってしまいます。良質な草が生えるように、春には野焼きをするという風習がかつてはあったのですが、産業の変化により、最近では山の資源を使うことがほとんどなくなり、輸入した原材料などを使うことが多くなって、野焼きが行われなくなってしまいました。
これは日本全国の問題ですか?
日本全国の問題だと思います。しかし長野県には里山の草地が少し残っていて、そうした場所は全国でも希少な場所です。
人が手をいれないと昆虫も減ってしまうのですか?
種によっては増えるものもありますが、減っている種をリストアップすると明らかに草原を生息とするものが減っています。長野県内には、かつて蝶の採集を趣味にされた方がたくさんおられて、そうした標本が残っています。その標本を元にしたデーターベースがあるのですが、それを見ると過去にいた場所の記録がわかります。
同じ種類で時代による変化を見ると、かつては五十以上の市町村で記録されていた、草原性の蝶の生息場所が、近年では3か所に減ってしまった事例があることなどが分かっています。
長野県の環境の変化は何が問題視されているのでしょうか?
長野県で長らく生き抜いてきた生きものの多くが、絶滅の危機に瀕している状況です。その原因は人間と自然との関わりが極端に変化したことだと思います。
地域の自然と人間の関係は、20世紀よりも前には相対的に安定したものだったのではないかと考えています。それが20世紀以降、極端に経済がグローバル化し、地域の暮らしと自然とのつながりが切れてしまった。山の自然を使わなくなった一方で、外来の生物がどんどん入ってきてしまいました。これらはどちらも同じ人間の暮らしの変化が原因となって、それが別の面に現れた結果です。
草原で外来種がポッと入ってきて環境に適応し、増えてしまうということですか?
外来種が生態系を変えつつある場所は草原だけではありません。ある外来種の生息に適した環境があれば、その種がそこに広がり、もとの生態系の質を変えてしまうということです。生きもの自身にとってみれば在来種も外来種も関係なく、ただ生きようとしているだけなので善し悪しは科学的にはいえません。
しかし、地域で目に付くのが外来種ばかりになってしまうと、その土地の持っている特色が消えてしまいます。これはその分、世界から多様性が失われるということです。外来種は人が持ち込んだ生物ですので、原因は人間の行動にあります。
従来からいる地元の生物を守るためにやっている事はありますか?
長野県の霧ヶ峰は広い草原が今でも残っている場所です。そこは「ありのままの自然」というより人が歴史的に手をいれて維持してきた草原です。近年、あまり草原の管理が出来なくなったことから、だんだん樹木が入り込んでくるようになりました。さらにこの10年くらいでニホンジカが増えてきて、ニッコウキスゲやマツムシソウの花を鹿が食べてしまうようになり、景観が一変してしまいました。その対策として地元の方々が電気柵を張ったところ、その効果により、植物への被害が減りました。花があるところにはマルハナバチがたくさん集まります。だから花を食べてしまうニホンジカを人の手で管理することにより、草原の環境が維持できている部分があるのです。
長野県には開田高原にも草原が残されています。ここは鹿の被害が少なく、草原性の植物や昆虫の希少種が残っている重要な場所です。もともと、木曽馬という在来種の産地です。戦後もしばらく牛を飼うための「野焼き」や「草刈り」が続けられてきた場所です。伝統的に春に野焼きをして秋に草刈りをする。翌年は休み、次の年にまた同じサイクルで2年に1回野焼きと草刈りを行うと、その場所では植物、昆虫などの希少種が多いということがわかってきました。これは大学の学生や先生がまとめた論文にもなっています。
そのような伝統的な管理を続けている場所が開田でも少なくなってきました。現在は事実上ひとつの集落でしか続けられていない状況です。これに対し、春に野焼きをするだけの場所では、植物の組成が変ってきたり、昆虫の種類も減ってきたりしています。
野焼きをすると希少な昆虫や植物も燃えませんか?
焼けてしまう昆虫もいますが、野焼きで温度が大きく上がるのは地表面付近で、地中ではそれほど温度が上がりません。そのため、土の中に産まれた昆虫の卵や地中で越冬しているサナギは生き延びることができます。野焼きは希少な生物が生き延びる手助けになっている面もあります。長い時間を経て、野焼きの環境に適応した昆虫や植物が生き残っているということです。
野焼きの歴史はどのくらいなのでしょうか?
世界的には数万年の歴史があります。オーストラリアの先住民の研究などでよく知られているのですが、野焼きをしたあとに生える植物が野生動物を集めるので、良い狩場になるそうです。日本列島でも縄文時代から野焼きが行われていた可能性がありますが、その目的のひとつに「ニホンジカなどが集まる環境を作って狩りをしやすくしていた」ということも考えられるのではないでしょうか。
温暖化の影響は?
研究所には気候学の専門家がいて、気候変動の予測モデルを扱っています。外部の研究機関の大型コンピューターで計算された、五十年後、百年後位の地球全体の気候変動の予測データを長野県の環境に細かく当てはめると、気候変動の予測地図が描けるわけです。ここ20年位で見るとあまり影響が出ていません。しかし今世紀の後半くらいになると、気候変動の仕方によっては、高山にいるライチョウの生息域はほぼなくなる可能性もあることが分かってきました。その共同研究の結果が今、論文にまとめられているところです。
このように、自然界への人間の影響に新たなものが加わりつつあるわけです。私が子供の頃は、経済成長期でどんどん自然を壊して、公害が増えた時代でした。その頃は開発か自然保護かと言う単純な図式で語られることが多かったと思います。これに対し、現在は自然を変える要因が見えにくくなっている時代です。
大きな視野で考えると、人間と自然の関係が変ってきていることがわかります。山から人間の活動が撤退し過疎化問題が生じる一方、国際貿易による外来種の問題が世界的に生じています。また温室効果ガスによる地球温暖化の問題もあります。いずれも人間活動のあり方に原因があることは変わりありません。
ご専門の長野県の昆虫のお話を聞かせてください
私が特に興味をもっているのはマルハナバチという蜂で、ミツバチに近い仲間です。黄色や黒の体毛が生えていて、モコモコしてぬいぐるみのように見えるかわいい外観をもっています。この蜂は寒いところにたくさん生息しています。日本では北海道と長野県に多いです。ヨーロッパにはたくさんいて、欧米ではよく知られている昆虫です。
高山植物は綺麗な花をたくさん咲かせます。その花を求めてマルハナバチがたくさん集まってきて、受粉をします。だから、高山に生える希少な植物にとっても重要な役割を果たしている蜂です。マルハナバチでも、高山帯、森林、草原を好むなど異なったタイプの種がいますが、中でも一番減っているのが草原を好むタイプです。霧ヶ峰のようなところには何種類かのマルハナバチがいます。
霧ヶ峰にも開田高原にも、絶滅寸前の昆虫が何種類かいます。例えば、モンシロチョウなど個体がたくさんいて絶滅しなさそうな昆虫もいますよね。そういう蝶の幼虫は食べるエサのメニューも豊富でいろんな植物を食べます。逆にいうと絶滅の恐れのある昆虫は、幼虫が食べるエサも限られる。だから、そのような植物が生える環境を維持しないとその昆虫も生き残れない訳です。昆虫の絶滅危惧種を守る活動を県内の数カ所でお手伝いしてきましたが、ほぼ必ずやることになるのが草刈りです。開田高原では伝統的な草地の管理のおかげで、植物や昆虫の多様性が維持されてきたことが研究で分かっています。
草刈りが重要なんですね
その土地でずっと草刈りを続けているお年寄りのアドバイスを聞きながら草刈りをします。私たち参加者は、広い土地なので電動鎌を使います。しかし手鎌と違って電動鎌で刈ると、つい切りすぎて草丈が低くなりすぎてしまいます。それでは駄目なので、高さ5センチくらいで刈っています。草刈りをやってみると、意外に楽しいです。
春には地元の方が野焼きをされるのを見学し、夏になるとそこに花が咲く、そして秋にはチームで青空の下、ワイワイと草の香りを嗅ぎながらみんなで草刈りをする。なので、とても充実感があります。もっとこのような活動を広めたいですね。
先生は今の研究、活動をどこかで発信していく機会はありますか?
日本の生態系にとって草原はとても大切だということを広く知ってもらいたい思いはあります。日本は森林が多く、森林環境には恵まれた国です。森林の大切さは多くの方が理解されていると思うのですが...
日本の草原には研究の分野でも最近まであまり目が向けられていませんでした。ヨーロッパの編集者が中心となってユーラシアの草原について1冊の本を作る計画が今進んでいまして、ほかの先生と一緒に私も日本の草原の状況について英語で紹介する章を担当しました。現在出版の準備が進んでいるところです。
日本の草原について幅広く、いろんな角度から英語で説明した論文は、1960年代に沼田眞さんという研究者が書かれたもの以外ありませんでした。日本の草原はあまり注目されなかった時代があり、そのためもあって減ってきたのではないかと思います。